たくましく


手足口病の俊クン3姉弟がやってきました。病院に行くためです。

3人とも下痢状態。

沙和ちゃん点滴後には平常と変わらないほど元気に。と思えば、夕方にはぐったり。

点滴後の元気は単に点滴がすんだ喜びだったようです。


俊クンは見違えるほど細くなりました。


子どもは病気しながら成長するんだということあらためて知らされます。

人生に生涯、順風満帆なんてこと有り得ません。
病気やトラブルが人間を強くしてゆくんでしょう。

たくましく育ってほしいと願うばかりです。

死刑制度


千葉法相が死刑執行で議論になっています。

死刑制度反対の立場をとっていた人が死刑執行に判をついた。

それどころか法相として初めて執行に立ち会った。

あと少しでお役御免になればこの問題から逃げられたものをあえて執行命令を下した。



誰しも“イヤなこと”に関わりたくないものです。それをあえて・・・。


人間が法の下で“人を殺す”という制度を国民的議論にする、千葉さんの意図でしょうか?


死刑制度をどう考えるか、国民に突き付けられました。

何を感じた?


小学校一年生の和香ちゃんが初めて人の死を体験しました。

ひい婆ちゃんの死は大変なショックだったようです。

火葬が終わって和香ちゃんも遺骨を拾いました。竹の箸をもって。

後で聞きました、“こわかった”と一言。


人間の死、そして火葬。ひい婆ちゃんの変わり果てた姿を目の当たりにし、遺骨を拾う。7歳の子どもにとってショックだったに違いありません。


誰も逃れられない“死”を、生まれて初めて突き付けられた和香ちゃん、何を感じたのでしょうか。

迷惑なジジババ

うつぶせで首を持ち上げているイックン。



本人は苦しいだろうに、うつ伏せにして首を持ち上げるイックンを見て、成長したと喜んでいるジジババです。


イックンが迷惑がっているに違いないのですが・・・。

お布施


最近、お布施を読経の料金と間違えている?

布施はダーナ、旦那の語源です。

旦那さんとは、布施をする人、布施ができる人のことです。

布施は欲を離れ、徳を積む行です。


現在、経費節減という言葉とあいまって、自己防衛本能が強くなっています。

“徳を積む"意識は薄れて心にゆとりがなくなった人が増えてきたようです。  
加えて最近は、葬式や法事など、なくなった人のご供養でさえ、読経の対価、“読経料"と考えている人が増えてきました。


大手の葬儀社がお布施の価格表まで作っているそうです。

葬儀の規模によって金額を決め、どのコースにしますか?というわけです。

宗教行為でなく、完全なビジネスになっています。


お布施は“お礼"です。
僧侶へのお礼ではなく、仏様への感謝の気持ち。
基本的に“感謝"の気持ちを形にするのが布施の心です。


特に親や先祖など、自分の命を育んでもらった方への感謝の気持ちが布施としてお寺を護持し次の世代に伝えてゆく力になるのです。

いくら包もうか?と悩みながら包むことも大事なんじゃないでしょうか?

ドバイの太陽

ただのスイカじゃありません。人呼んで“ドバイの太陽”



なんとはるばる中東ドバイまで輸出されて、向こうでは日本円にして、ひとつ30,000円以上出さないと買えない代物だそうです。


“蜂蜜のように甘い”とドバイで大絶賛とか。

いただきました。

“蜂蜜のよう”とは大げさですが、確かに“美味い”。

可愛そうな俊クンです

いじわる和香子が俊クンに異常接近。


手足口病にかかっているんだから“やめなさい”と言っても一切無視して
“俊クーン!”



ベタベタとくっ付き回られ、ついに伝染してしまいました。

手足だけでなく口の中にも水泡状のぶつぶつが出来ています。



色々、病気にかかりながら強くなってゆくんでしょう。


我が家はとっかえひきかえ、保育園状態です。


外孫ばかり汗汗汗

情緒も大切


京都の“通り名”が消える?


京都の町は道路が碁盤の目のようになっているところから、東西南北に走る通りの名称を使って位置を表現しています。

たとえば“堀川通り花屋町下る”と言えば本願寺の位置が理解されるのです。

町名や番地より通りの名称を使って位置を表すのが京都の特徴です。


それがインターネットの普及により逆に不要になっているとか。


カーナビやケイタイなどで場所の特定をしようとするとこれでは難しいというわけです。


町名と番地の方が場所を特定し易いのです。


なるほど。


でも京都のように碁盤の目のようになっている都市は、明らかに“通り名”を使って上る、下る、西入る、東入るの方が分りやすいとも言えましょう。

また、位置を特定するのではなく上る、下る、東入る、西入る、その後は自分で探す。


やっぱり京都らしいですね。
あやふやなところ・・・。


アナログ時代の便利さ、そして情緒も大切な気がします。

よろしいでしょうか?


最近気になる日本語のひとつです。


本来なら、「お待ちください」と言うべきところを「お待ち下さってよろしいでしょうか?」。

「いや、待てない」と相手が返事したらどうするんでしょうか。


「よろしいでしょうか?」と尋ねるのは相手に良いか悪いかの選択を迫ることです。

本来なら「待ってください」とお願いすることです。


すぐ責任が問われる今日、責任回避の意思の表れがこう言う言葉使いになっているのかもしれません。

死は必然


死を拒否するだけでは、充実した人生にはなりません。

いえ、反対でしょう。
死を拒否する人は、死に負けるのです。死は必然ですから。

忘れていても、考えようとしなくても必ず“死”は襲ってくるのです。



だから、“死”をごまかすのではなく、向き合うことが大切です。

仏教はそこから出発していると言えるでしょう。


死をどう受け止めるかということは、そのまま“生”をどう生きるかにつながります。


死んだらどうなるのでしょう?

死んだら終わりよ!
思考力を失った無気力な人間が増えているようです。

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