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感動の「お別れ演奏会」

JUGEMテーマ:日記・一般

幼稚園児の演奏とは思えない器楽演奏。昨日は、上野学園ホールでのりゅうせん幼稚園「お別れ演奏会」でした。


 
毎年のことながら、園児の可能性に驚きです。
 
りゅうせん幼稚園は音楽ばかりやっている?という感想を持たれるぐらい園児の演奏に皆さん驚かれます。
 
1月に入って演奏会の練習が始まりましたが、インフルエンザで学級閉鎖があったものの、見事にやってのけました。
 
教育、ご縁の大切さを改めて実感です。
 
縁次第で、仏にも鬼にもなってゆくのが人間です。
 

コメント

仏にも鬼にもなっていく・・・・確かに。

でも、このようにすると、時に依って場合に依って、仏の概念が変わってしまうのではありませんか。

このため、それが仏なのか鬼なのかをご存じなのは阿弥陀如来であり、人は勝手な判定はせずに阿弥陀様にお任せしよう・・・・これが阿弥陀経の心ですよね。

これを、あなた自身に訳せば、【すべての物事の善悪正邪は定める事ができない】となります。これがすなわち【色即是空】です。

では【色】とは何かと言えば、あなた自身の心を動かす働きを持つものとなり、この働きを中心にすれば、色は【法】となるのです。

つまり、人の心の状態を主眼とすれば、色即是空は【一切法即空】となるのです。

【一切法即空】と言う場合の【法】の定義はこのように広いのですが、さすがに広すぎて意味が分からなくなります。このため、法を狭義の法としましょう。狭義の法とは【仏法】【世法】【常識】などを指しますが、これが【空】とはどういう意味なのでしょうか。

人は《経典に書かれているから正しい》《法律で定められているから正しい》《常識的にこれが正しい》などと言います。ではこの場合【正しい】としているものは何なのでしょうか。

実際に考えいただければわかると思いますが、ほかの人に何か語る場合、その人に納得させたい【本音】が先にあるのです。聖典法律常識などは、その正しさを強調するための【建前】なのです。

つまり、経典にこう書かれているから私の本音は正しい・・・・と言っているのです。

たとえば、オーム真理教の事件でも、【経典にこのように書かれているから地下鉄でサリンを撒く行為は正しい】として、あのような行為を行ったのです。

人は、その建前の部分を否定できなくなると本音も正しいと思い込んでしまうと言う性質があるのです。これが、世の乱れの原因であるとお釈迦さまはおっしゃっています。

◆◆正しさは、建前にはなく本音にのみある◆◆・・・これが、【一切法即空】と言う考え方なのです。仏教の最高経典は法華経と言われます。しかし、法華経を見ても何が正しいのか、何をしたらよいのかさっぱりわからない。だから、阿弥陀如来におすがりして、まず極楽浄土に行き、そこで法華経を習う他ないと、法然師や親鸞師は考えられたわけです。

わからないのは当然と言えば当然。すべての経典は、正しいことも間違っていることもないと言う【一切法即空】から話が始まっているからで、経典上で正しい事とは何かと探しても出てこないからなのです。

また、実際に物事の善悪の判定すべてを阿弥陀如来にお任せするようにすれば、極楽浄土となるのも事実です。この場合の極楽浄土は死後の世界ではなく、現実に生きている世界が極楽浄土に変わるのです。

なぜ、この世が極楽浄土となるのでしょうか。【一切法即空】つまり、建前で正邪が定まらないとなれば、人には本音で善、正、真理を求めるようになると言う性質があるからです。

すべての人が、本音で善、正、真理を追究しようとする社会を釈迦如来は極楽浄土と表現しているのです。

現世で極楽浄土にある者は、来世でも極楽浄土にあるのは当たり前ですよね。来世は現世から続く世界であり何も特別な世界ではない。

わたしは聖書系列の者。あなた方から見れば部外者かもしれませんが、まぁ、たまには、部外者からの仏典の解釈もお聞きくださいませ。

  • JHVH
  • 2016/03/07 10:47 AM
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